Entry

DayXX /Jack

 それは失われた記憶。遠いようで近い出来事。

続き

 男が生まれ育ったのは極東の片田舎だった。
 山間にあり、避暑地でもなければ観光地でもない。農業を主な生業とする他は何もない村だった。一番近い街までは車で一時間。商店も少なく、娯楽にも乏しい。刺激を求める若者には退屈極まりなく、それゆえに高齢化に悩まされるような村だった。
 しかし、都会が苦手な男にとっては静かでよい故郷だった。男は仲間と遊び回るよりも家族と暮らすことを好んだ。牛を育て、畑を耕し、自然と一体となって過ごす。父母は老齢ながらも達者であり、双子の子供たちは大自然の中でのびのびと育った。黙って故郷までついてきてくれた嫁には笑顔が絶えず、幸せだった。穏やかで平和な生活が何年も何年も続いていた。これからも続くと信じていた。

 しかし世界はあっさりと反転するものだ。それまで当たり前であったものが当たり前でなくなり、明るかったはずの世界はあっさりと無慈悲な夜の顔に変わる。
 全てが一転したあの日のことを、今でも男は覚えているのだろうか。

 そう、季節はたしか秋から冬へと移り変わる頃。気持ちのいい秋晴れの日。
 その女は突如ふらりと現れた。

 どこからやって来たのか誰にもわからない。いつの間にか現れて、田舎道を悠然と歩いていた。
 それがハイキングでもするような恰好なら誰も気に留めなかっただろう。ごく稀に物好きな余所者が訪れることはあったからだ。自然すら金で買わねばならない都会に慣れきった人々にとっては、こんな田舎の村は別の意味で刺激的なのだそうだ。
 だが、その女は田舎道には似つかわしくない、人目を引く姿だった。踵の高い靴に小さなハンドバッグ、まるで絹のような髪は金色の髪留めで纏め上げ、耳元には大きな真珠が揺れていた。胸元が大きく開いたドレスはシンプルながらも華やかで、その鮮やかな光沢にどうしても目を奪われる。高級な生地でできているであろうことは素人目にも明らかだった。
 女はこの田舎道がまるでパーティー会場へ続く道だと言わんばかりに堂々と歩いていた。

 それが急に足を止めた。ちょうど男の家の小屋の前だった。

 その時男は農機具の片付けをしていた。仕事は昼前に終わり、昼食前の最後の一仕事とばかりに後片付けをしていた。家族は皆家に戻り、嫁と子供たちは食事の支度を、年老いた両親は一休みしていた。
 男は小屋で一人だった。
 収穫が終わった藁をまとめて小屋先に積み上げていた。一束一束は軽いが、まとまるとそれなりに重い。体のそこかしこが藁まみれになりながらも男は黙々と作業を続ける。これらは明日には業者が引き取っていく手筈となっていた。
 女は道端に佇んでそんな様子を見ていたが、やがて彼に近づき、
「ごきげんよう」
 穏やかな淑女の笑みを浮かべた。突然のことに男は一瞬言葉を失った。作業着の彼には女は別世界の人間に見えた。洗練された上流階級の人間だと思った。外国からの来賓であろうか。
 藁束を置き、道にでも迷いましたか、と聞くよりも早く、
「貴方の目って紫なのですね。この国の人たちは皆黒髪黒眼だと思っていたのですけれど。とてもきれいな色」
 男の顔を見つめて女が言った。たしかに男の瞳は紫がかっていた。濃い色なのでよく見ないとわからないが、光の加減によっては紫水晶のように輝くこともあった。今日は天気がいいから見えたに違いない。
「え、ああ、生まれつきなもので」
 またも言葉が遅れた。日頃、外の人間と接触することもないので、目のことなどすっかり忘れていた。村の人間は男の瞳の色が違うことなどもはや気にしていなかったからだ。
「よろしければ見せていただけませんか? 私、こう見えて医者ですの」
 返事があるよりも早く、汗と泥にまみれた彼の顔を両手で挟んで覗き込む。女は、一言で言えば美人だった。鼻筋高く白い肌、黒ではない瞳は女がこの国の人間でないことを示している。こんな美しい女は見たことがなかった。
 整った顔に間近に迫られ、男の心臓が鼓動を早める。顔を支える絹手袋はなめらかな材質で肌触りがよく、おまけに上品な香水の良い香りがした。
「――サリエルの眼」
 女が小さく呟いた。
「本当に、きれいな瞳ですわね」
 再びの笑顔は淑女のそれではなく、淫靡な商売女の歪んだ笑みだった。男の背中に冷たいものが走る。
「それ、欲しいわ」

 そして惨劇が生まれる。

Comment

Post Your Comment

  • コメントを入力して投稿ボタンを押してください。
投稿フォーム
Name
Mail
URL
Comment
Deleate Key